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与五沢ディレクター紹介

日本の歯科矯正界を牽引

咬合分類の指標である「アングルⅠ級、Ⅱ級、Ⅲ級」。歯科矯正の医学書に登場するDr. Angleに直接師事したDr. TweedやDr. Merrifieldとも交流があり、日本にスタンダードエッジワイズ法を紹介した歯科矯正医が、Yogosawa Foundationの与五沢文夫ディレクターです。

Dr.Tweed

1960年代1ドル360円の時代にアメリカへ渡り、第一線で活躍する歯科矯正医に師事したことは、技術だけでなく、非常に多くの学びがあったと言います。当時のアメリカの歯科矯正界を牽引する存在であったDr. Tweedと仕事をした際、若く名もない日本人の自分を対等に扱ってくれた姿勢に大変な驚きと感銘を覚え、人間性という部分でも大きな影響を受けたと語っています。

歯科矯正に関して費やした時間は約20万時間、患者さん1万人以上の治療、論文の発表106件など、これまで技術的および哲学的思想を軸とした研究に邁進し、精力的に活動をしてきました。与五沢ディレクターは、まさしく日本の歯科矯正の歴史に関わる人物です。

人柄・気質

明治生まれの両親の影響が大きいという与五沢ディレクター。幼い頃の日本は、現在と比べはるかに貧しい時代でしたが、人はそれぞれに思い合い、助け合いを当然とする時代でもありました。その中で、母親の「人が喜ぶことが自分の嬉しいこと」という姿勢を自然に受け継いだと言います。

また、与五沢ディレクターを語る上で外せないのが、モノづくり。少年の頃は夢中になって船や飛行機の工作をし、写真(現像・引き伸ばし)やオーディオの世界にものめり込んでいきました。ラジオの組み立てやスピーカーボックスの製作はお手のもの。幼年時代から10代後半はモノ作りが全てでした。
大学生になると、モータースポーツに没頭し、自動車競技は何でもチャレンジしました。ラリー、ジムカーナ、知らない町へのドライブも大好きでした。
歯科医師になってからは、忙しい合間を縫ってヒーレースプライトなどこだわりの車を解体・組立てに勤しんでいました。

患者さんが喜んでくれることが自身の喜びに繋がること、また、好奇心旺盛であり、生来手先が器用で細かい作業が好きだったことは、歯科矯正医という職業にピタリと当てはまり、高みを目指し続ける情熱の源だったのだろうと思います。

与五沢ディレクター
与五沢ディレクター
与五沢ディレクター

技術の研鑽

Yogosawa Foundationaの前身となる与五沢矯正研究会創設メンバーの先生は、「おそらく、与五沢先生が世界一の枚数をセファロ分析(トレース)した(※)」と述べています。与五沢ディレクターの高い技術は、歯科矯正にとてつもない時間を費やし、たゆまぬ努力をしてきた賜物であるのでしょう。

そして、その裏付けに伴う臨床結果は、専門家が見ても一つひとつが“芸術作品”と言って良いほど高いレベルのものばかりですが、当然、その“芸術作品”の裏には患者さんの人生があり、その一人ひとりの治療に対して心血を注いできた姿も、多くの歯科矯正医を惹きつけてきた要因でしょう。

※出典:『Monograph of Clinical Orthodontics 矯正臨床 Vol.42』 June 2020 P.84

軌跡・在り方

与五沢ディレクターは渡米後、当時最先端だった技術を身に着け、現地のアメリカ人に向けてインストラクターとして指導や技術審査なども行っていました。
帰国してからは、Yogosawa Foundationの前身である与五沢矯正研究会を立ち上げ、研究会メンバーと共にさらなる研究を重ねてきました。与五沢ディレクターのもとで学んだ歯科矯正医は、現在も各学会や大学、多くの歯科医院で活躍しています。

世界の最先端を体験し、歯科矯正の技術を極め、純粋に矯正治療のために尽くしてきた与五沢ディレクターは、現在、何の肩書も持たず、一個人の歯科矯正医として活動しています。その姿は、『矯正家』のあるべき姿を体現した与五沢ディレクターの完成形とも言えます。
与五沢文夫ディレクターは名誉でも権力でもなく、何よりも歯科矯正の成果をもって世の中に貢献することを願っています。そして、その実現のために、世界一の素質があると信じる日本の歯科矯正医が、世界一素晴らしい歯科矯正医であって欲しいと願っています。

近代矯正の歴史と与五沢ディレクターの活動

近代矯正の歴史と与五沢ディレクターの活動
日本の歴史 年代 欧米の歴史
1868 明治維新

1890 矯正治療が始まる
1800 1877 咬合跳躍法[Kingsley]

1892 歯牙移動にゴムの使用 保定装置の使用[Case]
1895 X線発見[Roentgen]
1898 E-arch発表[Angle]
1899 矯正専門学校設立[Angle]

1906 歯科医師法制定
1908 Angle学校卒業[寺木定芳]
1912 大正元年


1926 昭和元年
日本矯正歯科学会設立




太字は与五沢ディレクターの活動
1965 日本歯科大学卒業 同大学院入学




1969 日本歯科大学院修了、同校矯正学教室助手
1970 同校矯正学教室講師

1972 Suyehiro Edgewise講習会
帰国後、矯正診療所開業
1973 日本歯科大学矯正学教室非常勤講師
東京医科歯科大学矯正学教室非常勤講師
1976 港区に矯正診療所開設



1979 与五沢研究会 設立





1989 平成元年
1991 新たな成長予測法〚与五沢文夫]
1900 1901 アメリカ矯正歯科学会創立

【抜歯論争】
当時の主流であったAngle学派に対して異議を唱えることは相当の覚悟がいることでしたが、Caseは「慎重な検討の結果によれば、抜歯もまたやむを得ない場合もある」と主張しました。しかし当時はAngleの主張が正しいとされ、Angleが没する1930年まで、矯正治療に抜歯を取り入れることは”異端”とみなされました。

【歯槽基底論】
「矯正治療の影響は歯を支えている骨の中に限定され、骨の根本的な大きさや形を変えることはできない」という研究結果。Angle学派の非抜歯の論拠「正しい咬合が得られるように歯を配列すれば、それに併せて顎骨の成長を促すことができる」を覆す内容でした。


1928 エッジワイズ装置発表[Angle]
1931 セファロの使用[Broadbent]
1941 エッジワイズ法に抜歯論確立

【「抜歯による矯正の再治療100症例」発表】
矯正治療に抜歯の必要性を説いたTweedは、矯正界から大きな非難を浴びましたが、無償で再治療した抜歯症例を展示して自身の考えを主張し続けました。これは当時の矯正界の定説を根底から覆すものでした。
<Tweedの言葉>
“Just put your plaster on the table, …Let the treatment speak for itself.”



1966 日本人初、米国Kesling CenterにてBegg法講習会を受講
講習会受講直後エッジワイズと出会い、エッジワイズを志す
その後6ヶ月間滞在し、Dr.Tweedとも出会う
この時36軒の矯正医を尋ねる
Georgetown大学院の講義風景を見学し感銘を受ける


1971 米国ワシントンD.C.にて矯正診療所勤務
1972 Tweed Studyコース受講(講師Dr. Merrifield)
ストレートワイヤー法[Andrews]



1976 Tweed Foundation 検定試験委員
1977 Tweed Foundation インストラクター

1980 Tweed Foundationにて講演
1981 Angle Society of Orthodontists アフィリエイトメンバー
1984 Angle Society of Orthodontistsレギュラーメンバー
2004 日本矯正歯科協会設立(JIO)代表理事
2004 日本歯科矯正医認定医機構(JBO)審査委員長
2011 日本歯科矯正専門医学会(JSO)顧問
2021 公益社団法人日本矯正歯科学会 特別講演
2000  

参照元:
与五沢文夫監修 与五沢矯正研究会編著 『矯正臨床の基礎』 クインテッセンス出版株式会社 2008年
『歯科医学大辞典[縮刷版]』 医歯薬出版株式会社 2001年 P1194、P2022、P2023
日本矯正歯科専門医名鑑「抜歯か非抜歯かー矯正治療における抜歯問題の是非」

与五沢文夫ディレクター ごあいさつ